多文化ソーシャルワーク改題① -カンニング考
今年入校なされた方、そして、2年目の方。いつも業務の合間に、レポート作成や国家試験勉強に活動し、お疲れ様です。今年は酷暑日も、常態化しつつあり、空気が発熱をこえている(コロナのころは大騒ぎの指標でしたね)毎日ですね。そして、熱いといえば、今月はホットなスクーリングですね(フライヤー投函しましたよ)。
さて、今日は、助け合い精神というか、多文化共生なんでしょうけれど、カンニングや答案見せあいのトピです。
今年もくだんの国の留学生たち・・・には頭をかかえますね。 前期試験がはじまりましたが、大学や短大の日本語別科でも同じだと思いますが、カンニングに対する貪欲さが違いますね。「どんどん答案を見せたり」「見たり」。腕にかいたり、かかなかったり。先日、外国人に対する介護の某研修会場で、講演なされていた新潟のとある大学の先生が、助け合いの精神はいいのだけれど、自分の答案を見せてあげるのは、日本では助け合い精神とはいわず、カンニングほう助だから、禁止されていますね。と、自校の留学生にはお伝えしております、なんて、冗句をとばしておりました。とか、・・いなかったとか・・・
かくいう私も昨年、一昨年と、腕に勉強してくださる件の国の留学生に、えらい目にあいました・・・あなたは耳なし芳一か。と、試験監督していて、言ったとか、言わないとか。(昨年は小泉八雲の朝ドラでしたし、時流にのって赦してみましたけどね)
さて、笑い話として片付けるにはあまりに構造的な話なので、ここから少し社会学的に腰を据えて考えてみましょう。
「カンニング天国」というレッテルの前に
まず断っておきたいのは、これは「A国の人はズルをする」という民族性の話では断固としてない、ということです。カンニングという行為自体は、試験制度が発明された瞬間から、人類が営々と続けてきた「ズル」の歴史そのものです。日本人だって昭和の時代、消しゴムの中に暗記事項を仕込んだり、下敷きに透かし文字を書いたりと、創意工夫の限りを尽くしてきました。むしろ、腕に書くというのは非常にオーソドックスで、正統派の手法とさえ言えます。芳一もさぞ苦笑いでしょう。
問題は「見せる/見せてもらう」という行為に対する、文化ごとの温度差です。集団の結束と相互扶助が生存戦略として叩き込まれてきた社会では、「困っている仲間を助けないこと」のほうが、むしろ倫理的に問われる行為になる。一方、日本の試験制度は、近代化の過程で「個人の能力を厳密に測定する」という、極めて個人主義的な思想の上に成立しています。つまり、これは「モラルの高低」の問題ではなく、「そもそも試験というゲームのルールブックが、参照している世界観が違う」という話なのではないでしょうか。
ルールは破られるために存在する???(暴論)
ここで本題です。ルールというものは、破られることを前提として設計されているのではないか、という身も蓋もない仮説を提示したいと思います。
試験監督が「カンニング禁止」と言えば、留学生は「見せてはいけないのなら、見えるところに置かなければいい」という穴を見つけます。監督側は「では机の上に私物を置くの禁止」と塞ぐ。すると今度は「筆記用具ケースの模様に書けばいい」と新手が出る。監督側は「無地の筆記用具のみ許可」と応じる——。
これ、まるでウイルスとワクチンの共進化です。あるいは、関所を作れば裏道ができ、裏道を塞げばまた別の裏道ができるという、江戸時代の関所破りの歴史とも相似形をなしています。この「いたちごっこ」を、単に「困った留学生と疲弊する教員」の不毛な消耗戦として眺めるのは、いささか短絡的です。
実はこのプロセスこそが、制度を洗練させていく唯一のエンジンなのだとは言えませんか。最初から完璧なルールなど存在しません。人間が想定していなかった抜け道を、当事者が身体を張って発見してくれるからこそ、制度設計者は初めて「ここに穴があったのか」と気づく。カンニング対策が進化するたびに、試験監督のノウハウは蓄積され、次の世代の学生への説明はより具体的に、より説得力を持つようになっていく。留学生たちは、意図せずして「制度のバグ出し係」という、報酬なきベータテスターの役割を担わされているわけです(かなり皮肉ですが)。
多文化共生とは「翻訳作業」の連続である
とはいえ、これを「そのうち向こうも学ぶだろう」と放置するのは、教育者としては怠慢です。多文化共生の本質は、異文化の作法を黒か白かで断罪することではなく、「なぜそのルールが必要なのか」を、相手の文化的文脈に翻訳して手渡す作業にあるはずです。
「カンニングほう助」という日本語の法概念を、ただ「ダメです」の一言で押し付けるのではなく、「この試験は、あなた個人が現場でひとり判断する力を測るためのものだ。仲間に頼れない夜勤のときにひとり、困るのは、見せてもらったあなた自身なんですよ」と、実務的な必然性まで込めて説明してやる。すると学生の顔つきが変わる瞬間があります。単なる「郷に入っては郷に従え」の強制ではなく、「なるほど、この社会のルールにはそれなりの理屈があるのか」という納得が生まれる。
いたちごっこの果てにあるもの
面白いのは、こうした軋轢を経た教室ほど、数年後には驚くほど厳格な「自主監督文化」が育つことです。かつて腕に書いていた先輩たちが、後輩に向かって「ここでは見せ合うのはダメなんだ」と説教している光景を、私は目撃してきました。破る側だった彼らが、いつしか一番厳しいルール番人になる。これもまた、いたちごっこが生み出す副産物としての「習慣の内在化」なのでしょうか。
耳なし芳一も、経を書き込まれた挙げ句、最後には僧侶の弟子として立派に成長したという話ではなかったか——真偽は定かではありませんが、監督席から見える教室の風景も、そんな成長物語であってほしいと、酷暑の中でひそかに願っている次第です。が、スクーリングにご参加なされる、みなさまは、どのようにお考えになりましょうか?21日にお聞かせくださると幸いです。みなさまのご意見を楽しみにお待ちしております。